歌の練習【高い歌唱力は諸刃の剣】
自分も含め、多くの歌い手や
見習い歌唱者をこの目と耳で見てきて
色々と思うことがある。
果たして、歌い手にとって
歌の巧さは武器となり得る宝なのか
それとも仇なのか。
結論からいうと
どちらも正解であり不正解で
武器にするも仇にするも
歌唱者次第というのが現実だと思う。
世の中には練習せずとも
歌がもともと人並み以上のレベルで
歌えてしまう人というのがいる。
しかしながら
そういう人たちがみんなその道に
進んでプロとして大成していけるか?
と言えば、もちろん答えはNoだ。
一方で、技巧面については並みでも
何かのきっかけを掴んでプロになり
一定以上の支持を得てその道で
結果やっていける人たちがいる。
この違いは一体、何なのか?
若い歌唱者には理解できない者も
多いのではないだろうか。
こんなにうまいのに・・・
こんなに歌声が良くて、声も出るのに・・・
本人も含めてそう思う気持ちは
私も大昔の経験から、痛いほどよく理解る。
このブログではあくまで
既存枠的な商業音楽のプロの道を
目指したいと思っている人を
テーマの対象としているので
もし趣味かその延長の範囲もしくは
アスリート的な発想に近い感じで
”自己最高記録”を追い求めることにだけ
興味があるとか、そういう人であれば
私も含め他人の言うことなど
何も気にすることはない。
あと、既存枠以外に昨今
新しく生まれた音楽表現の形だとか
収益システムの中で生きる場合も
またこれには当てはまらないことが
多いのではないかと思う。
(但し、入口がそこで後から結局既存枠に
取り込まれる形になると話はまた変わってくる)
要するに同じ歌を歌って生きる
と言ってもその目的によって
私がこのブログで常日頃語っているような
ことを意識することは必要にも不要にもなる。
要するに、
己の意志次第ということ。
前置きが長くなったが
話を今回のテーマに戻す。
技術的ポテンシャルの高さは
ないよりはあるに越したことはない。
ただ一方で元々それなりに
歌唱力がある人ほど、その力に感けて
一見すると中途半端な技術力に
あぐらをかいてしまいがちでもある。
そういう歌唱者をプロアマ問わず
これまでたくさん見てきた。
想定範囲のスキルというのは
申し訳ないがすぐに慣れて飽きられる。
それは技術が一定レベルまでなら
適切な努力を積み重ねることは
分け隔てなく誰でも可能だからだろう。
ただしその程度については
もしかするとフィジカルな才能の
ポテンシャルに拠る部分はある。
つまり限界がある。
一方、一般的に言うところの
「表現力」みたいなものはというと
これは一様のトレーニングだけでは
なかなかそう容易く身につかない。
技術ポテンシャルが高い者ほど
こういった部分に気づきにくかったり
気づいても無意識に技術頼み癖のせいで
むしろ、より高いハードルにもなり得る。
昔から【器用貧乏】という言葉があるが
歌の世界においても実は技術力が
もともと高い者ほどこの器用貧乏的な
状況に陥りがちなのかもしれない。
これからの時代、努力とか根性
みたいな言葉も思考もおそらくは
錯誤的発想になる。
ただ、筋トレに近い技術鍛錬と違って
表現というのはテクニックもなくはないが
本質的には精神鍛錬の領域だ。
私がいつも言っている
プロとして必要な最低限の合格ラインを
クリアした技術力を持ち合わせている者なら
※要するに技術力不足が表現の足引っぱりにならないレベル※
着眼一つでガラリと歌の存在感や
説得力を変えることもできると思う。
この精神鍛錬にとって
既成概念でいうところの努力は
時代が変わっても不可欠なのではと
個人的には思っている。
ただしこの努力の在り方が
これまでとは変わってくるとも思う。
そこがこれから道を志す
若い歌唱者と彼らを導き指導する立場の
業界の大人たちには必要になってくる。
当たり前のことだが
歌は人が声を発することで生まれる。
ということはこの声に含まれる
エネルギーの質によって
その歌がもつ方向性も決まることになる。
どんな歌を歌おうが基本
個人の勝手ではあるのだが
既存のプロ枠でも
ここ数年の新しい仕組み枠でも
マスに支持されることを望むのならば
歌唱についても制作についても
マスの最大公約数的視点が不可避だろう。
一度理解してしまえば簡単なことだが
意外とこういうことを教えてくれる
気の利いた大人は少ないし
24歳以下の若い見習い歌唱者が
自力でこれを悟るのは至難の業だ。
あるとしたら若手俳優のような人たちが
歌とはある意味また別の視点や感覚で
たまたま成立してしまうような事例だろうか。
メロディーだけ上手になぞる
薄っぺらい歌はせいぜい歌唱者が
自分自身に向けて歌うくらいが関の山だろう。
それが悪いと言いたいわけではない。
そうしたいなら堂々と胸を張って
万年家で誰に見られるでもなく
歌っていればいいのだから。
でも何かを通じて配信してみたり
思い思いに不特定多数を対象とした
活動を通じて取り組んでいるということは
少なからずマスに通じるものを
歌う立場を思い描いているのだと思うので
だとすれば意識するポイントは
自己満足や承認欲求を象徴するような
スキル自慢ではないのでは?
というのが私の立場から見た
率直な所感だ。
せっかく持ち合わせた
スキルやポテンシャルとは
これ見よがしにふりかざすのではなく
上手く武器として活用してもらいたいものだ。
見習い歌唱者をこの目と耳で見てきて
色々と思うことがある。
果たして、歌い手にとって
歌の巧さは武器となり得る宝なのか
それとも仇なのか。
結論からいうと
どちらも正解であり不正解で
武器にするも仇にするも
歌唱者次第というのが現実だと思う。
世の中には練習せずとも
歌がもともと人並み以上のレベルで
歌えてしまう人というのがいる。
しかしながら
そういう人たちがみんなその道に
進んでプロとして大成していけるか?
と言えば、もちろん答えはNoだ。
一方で、技巧面については並みでも
何かのきっかけを掴んでプロになり
一定以上の支持を得てその道で
結果やっていける人たちがいる。
この違いは一体、何なのか?
若い歌唱者には理解できない者も
多いのではないだろうか。
こんなにうまいのに・・・
こんなに歌声が良くて、声も出るのに・・・
本人も含めてそう思う気持ちは
私も大昔の経験から、痛いほどよく理解る。
このブログではあくまで
既存枠的な商業音楽のプロの道を
目指したいと思っている人を
テーマの対象としているので
もし趣味かその延長の範囲もしくは
アスリート的な発想に近い感じで
”自己最高記録”を追い求めることにだけ
興味があるとか、そういう人であれば
私も含め他人の言うことなど
何も気にすることはない。
あと、既存枠以外に昨今
新しく生まれた音楽表現の形だとか
収益システムの中で生きる場合も
またこれには当てはまらないことが
多いのではないかと思う。
(但し、入口がそこで後から結局既存枠に
取り込まれる形になると話はまた変わってくる)
要するに同じ歌を歌って生きる
と言ってもその目的によって
私がこのブログで常日頃語っているような
ことを意識することは必要にも不要にもなる。
要するに、
己の意志次第ということ。
前置きが長くなったが
話を今回のテーマに戻す。
技術的ポテンシャルの高さは
ないよりはあるに越したことはない。
ただ一方で元々それなりに
歌唱力がある人ほど、その力に感けて
一見すると中途半端な技術力に
あぐらをかいてしまいがちでもある。
そういう歌唱者をプロアマ問わず
これまでたくさん見てきた。
想定範囲のスキルというのは
申し訳ないがすぐに慣れて飽きられる。
それは技術が一定レベルまでなら
適切な努力を積み重ねることは
分け隔てなく誰でも可能だからだろう。
ただしその程度については
もしかするとフィジカルな才能の
ポテンシャルに拠る部分はある。
つまり限界がある。
一方、一般的に言うところの
「表現力」みたいなものはというと
これは一様のトレーニングだけでは
なかなかそう容易く身につかない。
技術ポテンシャルが高い者ほど
こういった部分に気づきにくかったり
気づいても無意識に技術頼み癖のせいで
むしろ、より高いハードルにもなり得る。
昔から【器用貧乏】という言葉があるが
歌の世界においても実は技術力が
もともと高い者ほどこの器用貧乏的な
状況に陥りがちなのかもしれない。
これからの時代、努力とか根性
みたいな言葉も思考もおそらくは
錯誤的発想になる。
ただ、筋トレに近い技術鍛錬と違って
表現というのはテクニックもなくはないが
本質的には精神鍛錬の領域だ。
私がいつも言っている
プロとして必要な最低限の合格ラインを
クリアした技術力を持ち合わせている者なら
※要するに技術力不足が表現の足引っぱりにならないレベル※
着眼一つでガラリと歌の存在感や
説得力を変えることもできると思う。
この精神鍛錬にとって
既成概念でいうところの努力は
時代が変わっても不可欠なのではと
個人的には思っている。
ただしこの努力の在り方が
これまでとは変わってくるとも思う。
そこがこれから道を志す
若い歌唱者と彼らを導き指導する立場の
業界の大人たちには必要になってくる。
当たり前のことだが
歌は人が声を発することで生まれる。
ということはこの声に含まれる
エネルギーの質によって
その歌がもつ方向性も決まることになる。
どんな歌を歌おうが基本
個人の勝手ではあるのだが
既存のプロ枠でも
ここ数年の新しい仕組み枠でも
マスに支持されることを望むのならば
歌唱についても制作についても
マスの最大公約数的視点が不可避だろう。
一度理解してしまえば簡単なことだが
意外とこういうことを教えてくれる
気の利いた大人は少ないし
24歳以下の若い見習い歌唱者が
自力でこれを悟るのは至難の業だ。
あるとしたら若手俳優のような人たちが
歌とはある意味また別の視点や感覚で
たまたま成立してしまうような事例だろうか。
メロディーだけ上手になぞる
薄っぺらい歌はせいぜい歌唱者が
自分自身に向けて歌うくらいが関の山だろう。
それが悪いと言いたいわけではない。
そうしたいなら堂々と胸を張って
万年家で誰に見られるでもなく
歌っていればいいのだから。
でも何かを通じて配信してみたり
思い思いに不特定多数を対象とした
活動を通じて取り組んでいるということは
少なからずマスに通じるものを
歌う立場を思い描いているのだと思うので
だとすれば意識するポイントは
自己満足や承認欲求を象徴するような
スキル自慢ではないのでは?
というのが私の立場から見た
率直な所感だ。
せっかく持ち合わせた
スキルやポテンシャルとは
これ見よがしにふりかざすのではなく
上手く武器として活用してもらいたいものだ。